横山やすしさん 最期に息子に託した言葉は「俺の愛人たちを頼むな」 36人分の連絡先とともに… …ビビット」(月~金曜前8・00)にVTR出演。父で漫才師・タレントの故横山やすしさん(享年51)について語った。 10~15歳頃は度々テレビで親子共演… (出典:エンタメ総合(スポニチアネックス)) |
横山 やすし(よこやま やすし、本名:木村 雄二(きむら ゆうじ)、1944年3月18日 - 1996年1月21日)は、かつて吉本興業・大阪本社(現・よしもとクリエイティブ・エージェンシー・大阪本部)に所属していた漫才師、タレント。身長163cm(本人談)。愛称は「やっさん」。 68キロバイト (9,646 語) - 2018年11月13日 (火) 22:52 |
横山やすしの・・・「やっさんトンデモ伝説」
修学旅行にやってきた父
―“天才漫才師”として昭和の漫才ブームを牽引した一方、型破りな生き様を貫いた横山やすしさん。『父・横山やすし伝説』では、その知られざる素顔が息子である一八さんの視点から語られています。
修学旅行にやってきた父
―“天才漫才師”として昭和の漫才ブームを牽引した一方、型破りな生き様を貫いた横山やすしさん。『父・横山やすし伝説』では、その知られざる素顔が息子である一八さんの視点から語られています。
親父は51歳の若さで亡くなりましたが、実は祖父も50代で亡くなっているんです。昨年、僕も48歳となり、「親父の死んだ歳に近づいてきたな」と思っているうちに、父と僕が本当はどんな人生を送ったのか、書き残しておきたくなったんです。
僕自身は結婚していませんが、末の妹には3人の子どもがいます。その子たちに「おじいちゃんやおっちゃんは、どんな人やったのか」を伝えたいという気持ちもあった。僕にとってこの本は「遺言書」なんです。
―一八さんがやすしさんと暮らし始めたのは、10歳の頃からでした。
僕の生みの母と父は別居していたので、小さい頃の僕は母親と一緒に静岡で暮らしていたんです。
その頃は、横山やすしという漫才師の存在すら知らなかったんですが、10歳の頃、親父に引き取られることになった。ただ、僕は14歳で独立したから、親父と一緒に住んでいたのは4年間だけなんです。
―その短い期間にも、仰天するような出来事がいくつもありました。
ずっと離れて暮らしていたせいか、親父は子どもが心配で仕方なかったようです。たとえば僕が小学生の頃、修学旅行で広島県の宮島に行ったら、なぜか親父がいるんです。「おう、ちょっと通りかかったんで、来たったわ」なんて言ってましたけど、嘘つけって(笑)。
ちなみにその修学旅行のときは、親父に言われて白いスーツを着て行ったんですが、あれは恥ずかしかったな。妹は学校の行事用に真っ赤なチャイナドレスをプレゼントされたこともあります。ありえないセンスの持ち主でしたね。
―アメリカに飛行機を買いに行くという豪快な逸話も紹介されています。
僕が中学2年の時でした。学校から帰ると、「一八、ちょっとアメリカに行って飛行機買うから、お前、見届けろ」と言い出し、銀行で7000万円もおろして、そのまま行ったんです。
親父は英語なんてできないから向こうでも日本語でまくし立てて、1500万円くらい値引きさせた(笑)。
その飛行機に乗って初日の出を見に富士山まで行く、というのが我が家の恒例行事だったんですけど、大晦日は友達と遊びたかった僕には苦痛でした。
乗り物酔いする妹なんか、飛行機に乗っている間中、下を向いていて景色なんてほとんど見ていない。それでも親父は、「こんな初日の出、普通の人には見られへんど」って上機嫌でした。
素顔はさびしがり屋で
―クラブなど夜のお店に一八さんを連れて行くこともあったとか。
小学生の頃から連れて行かれました。「ワシはモテんねんで」と、息子に自慢したかったんだと思う。子どもを連れていけば良い人だと思われてモテるだろうという、ちょっとこすい計算もあったかもしれません(笑)。
後に僕は父の愛人たちに会う機会があったんですが、みんな「介護していただけよ」と言ってました。毎晩、飲み潰れてしまう父は愛人の部屋に行っても何もせず、そのまま寝かしつけてもらうだけだったようです。
―芸人らしいエピソードの一方、寂しがり屋の一面も描かれています。
我が家では、「トイレの戸を閉めてはいけない」という妙なルールがあったんですよ。「どこにいるのか確認したいから」と親父は言ってましたが、子どもの姿が見えないと寂しかったんだと思う。
友達が遊びに来た時でも、必ず戸を開けて用を足さなければいけなかったので、困りましたけど(笑)。
あと、親父は夜中でも家に帰ってきたら必ず家族に戸を開けさせていました。鍵を持っているのに、絶対に自分では開けない。誰かそばにいないと寂しかったんでしょう。
―意外なことに、実はやすしさんは酒好きではなかったそうですね。
どちらかと言えば、父は酒に弱く、家では飲まないこともよくありました。そんな親父が無理をして飲んでいたのは、漫才師として14歳でデビューした頃、周りの先輩芸人から「酒も飲めんガキが芸人ヅラすんな」といじめられたことがきっかけでした。
親父は芸人としてなめられないように、酒を飲んでいたんです。
亡くなる数年前に飲酒運転で事故を起こしたとき、親父は「ブランデーをボトル1本半飲んだ」と話しましたが、本当はビール1本しか飲んでなかった。なぜ嘘をついたのか聞くと、「ビール1本で事故じゃ、カッコつかんやろ」と言ってました。
―お父さんは「芸人・横山やすし」を演じていたと分析されています。
たとえば俳優でも、石原裕次郎さんならボス、高倉健さんなら渋い男というように、自らに着せられたイメージを大切にしますよね。同じように、父は「ケンカっ早くて、酒好き、女好き」の横山やすしを演じていた。素顔の木村雄二に戻ることができるのは、家族といる時だけだったと思う。
―一八さんが父・横山やすしから学んだ最も大きいことは何でしょう。
人間は矛盾しているのが当たり前だということを、父は身をもって教えてくれました。たとえば、昼間は家で「家族を大切にせえ」と言っているのに、夜になったら家族を放ったらかしてクラブでモテようとする(笑)。言うこととやることが矛盾してるんだけど、それが人間なんだと教えてくれた。
子どもの頃にはわからなかったけど歳を重ねるうちに父の言葉が理解できるようになりました。
(取材・文/平井康章)
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